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計算尺の怒濤の歴史

July 16, 2010, Daisuke TOMINAGA
| 発明までの歴史 | 発明と熾烈な争い | 機能的発展 | 日本での開発と全盛期 | 衰退 | 計算尺は死んだのか | 参考歴史発見 |

発明までの歴史

計算尺 (スライド・ルール、slide rule) が発明されたのは、いまから400年ちかく前の1632年、イギリスでした。

当時の日本

当時の日本は江戸時代、徳川家光の治世で、鎖国がおおよそ完成した頃でした。 この頃は、学問と言えばまずは朱子学を始めとする儒教、四書五経で、 それらの頂点が仏教哲学でした。 仏教哲学は現在でも通用する先進性と緻密な体系を備えた申し分のない学問ですが、 一方で他の自然科学、特に和算と呼ばれた数学については、 体系が作られようとしている揺籃期でした。 日常的で親しみやすい数学の問題を数多く紹介する「塵劫記」 を吉田光由 (よしだみつよし、1598-1673、京都角倉家 豪商として知られる) の出身で、出羽守毛利重能に師事した和算家) が書いたのが江戸時代初期、計算尺の発明される 5 年前の 1627 年で、 これが後に多くの学者を生むことになりました。 その一人、和算の代表的学者である関孝和 (1642-1708、 徳川六代将軍綱豊に仕え、 点竄術 (代数の計算法) を考案、行列式の概念を世界でも最初期に発案した。 しかし養子の刑事処分 (重追放) により家が断絶し、生涯の詳細は不明) が多くの本を書き始めるのは、 この50年後あたりからです。

対数の発見

イギリスでは、この少し前の1614年に、 スコットランドのジョン・ネイピア (John Napier、1550-1617、 貴族で、数学、物理学、天文学に造詣が深く、 カトリックを批判した宗教家としても知られ、さらに小数点の発明者でもある) が対数の計算表を発表しました。 これが計算尺の基本アイデアにつながります。 その当時、 1609年にはドイツ・オーストリアではヨハネス・ケプラー (Johannes Kepler、 1571-1630、ドイツの数学者。ティコ・ブラーエの助手を務め、 天体の運行を楕円軌道で表現した) が「ケプラーの法則」を発表し、 フランスではマラン・メルセンヌ (Marin Mersenne、1588-1648、 カトリックの神学者。数学、物理、哲学にも造詣が深く、 素数に関する公式を発表した) を中心とした数学者のコミュニティが生まれました。 ヨーロッパの数学は、 近代数学に向かって劇的な発展を遂げる直前であったと言えます。 当時の通信事情は、現在に比べると非常に手間のかかるものでしたが、 ヨーロッパ内では書簡を通じて活発に議論が行われており、 ネイピアの研究も、ケプラーの計算を助ける目的であったとも言われています。

ガンター尺: 対数を使って乗算ができる一本の尺

そんな中、 1620年にはイングランドで天文学の教授だったエドマンド・ガンター (Edmund Gunter、1581-1626) が「対数尺」を発明し、1623年にそのアイデアを本に書いて出版しました。 これは「ガンター尺」とも呼ばれるもので、 長さ60cm、幅4cmの長い板に、普通の数直線とそれに対する三角関数の値、 対数値などが刻んであるものでした。 二つの数の乗算を行いたいときには、コンパス (デバイダ) を二つ用意し、 二つの数の対数目盛上での長さをそれぞれで計り取り、 その二つを合わせた長さを対数尺上で読み取ることで、可能でした。 ガンター尺には三角関数の目盛りも刻んであり、特に航海でよく用いられました。

発明と熾烈な争い

フランスで急がれた発表

1624年に、イギリスの数学者エドマンド・ウィンゲイト (Edmund Wingate、 1593–1656) がパリで、 「定規を使った計算について (L'usage de la règle de proportion en arithmétique)」 というガンター尺の使い方に関する本を出版しました。 この前の年、フランスの王女アンリエット・マリー (Henrietta Maria of France、 1609-1669、 イングランド王妃として幸せな結婚生活を送り多くの子をもうけたが、 激動のイングランドをカトリック信者として生き抜いた) とイングランドのチャールズ王太子 (後のチャールズ1世、Charles I、1600-1649、 カトリックを駆逐して英国国教会で国教を統一しようとし、清教徒革命にて処刑された) の縁談がまとまり、ウィンゲイトは当時 14 歳だったアンリエット・マリーの英語の教師としてパリに呼ばれました。 ガンター尺のことをイギリスで興味深く見ていた彼は、 フランスで「対数で目盛りを刻んだ定規を計算に使う方法」の発案者を名乗り、 その名誉を我が物とするため、 王室での家庭教師の傍ら、大急ぎで本を書いて出版しました。この本では、 片側に普通の数直線、もう片側に対数で目盛りが刻んである定規について触れてあり、 現在でも、これが計算尺の始まりではないかとする意見もあります。 しかしこれには滑尺がない、つまり英語で言うところの「スライド」ルール (slide rule) ではありませんでした。

盗作本と本当の発案者

1630年、ガンターの友人で教会の僧でもあったイングランドの数学者、 ウィリアム・オートレッド (William Oughtred、1574-1660) が円板形の計算尺を発案しました (発案自体は1622年という説もあります)。 そして2年後の1632年に、二つのガンター尺をスライドさせることで乗算が行える、 直線型計算尺を発案しました。現在では、これが計算尺の最初であるとされています。 といってもこの発明を世に発表したのは彼本人ではなく、 教え子で数学教師をしていたリチャード・デラメイン (Richard Delamaine、1600-1644) でした。 デラメインは1630年に「輪を使った計算 (Grammelogia)」という本を出版し、 その中で「二つの円板の円周上に対数間隔で目盛りを刻むことで乗除算ができる」 「この発明者はデラメインであり、他の者が許可なくこの計算尺を作ることを禁ずる」 と書きました。

泥沼の非難合戦

オートレッドはこれに対し、反論する本 「円を使った計算法 (Circles of Proportion)」を書きました。 この本はラテン語で書かれたので、 オートレッドの別の教え子、ウィリアム・フォスター (William Forster、生没年不祥) がこの本を英語に翻訳、編集して1932年に出版しました。 その中でフォスターは、デラメインの名指しを避けながらも 「このオートレッド先生のアイデアを勝手に発表した者がいる」と指摘しました。 これを受けてデラメインは自書の第二版以降の版で繰り返し反論を続け、 双方による非難合戦がはじまりました。 そこでオートレッドは直接自分で反論することにし、 「円を使った計算法」の1633年の版に書簡を挿入するという形で、 自分の主張を述べました。 そこでは「デラメインの本は私のアイデアの盗作で、 なにも新しいアイデアはない上に、私の教えたこともよく理解できていない」 と痛烈にデラメインを非難しています。 オートレッドは聖職者でもあったのですが、 後世から見ると、お互いを泥棒とののしりあう、まさに泥仕合の様相で、 歴史に汚点を残したといえる結果になりました。

決着

当時、なにか学術的に優れた発案があったとき、 それを教え子などの仲間内で議論し、発表が数年後になることはよくあることでした。 その結果、オートレッドは「誰が計算尺を発明したのか」について、 デラメインやウィンゲイトとの激しい議論に巻き込まれることになりました。 結局、彼らの存命中に決着がつくことはないままでした。 現在では、発案自体はおそらくオートレッドであろう、 しかしデラメインを卑怯な盗作者と断定するだけの根拠もなく、 もしかしたら発案になにか貢献していたのかもしれない、 ウィンゲイトは発案者ではないが、 彼なりの独自の貢献が確認できる、という解釈になっています。

ちなみにデラメインはその後、上記のアンリエット・マリー (イギリスではヘンリエッタ・マリアと呼ばれました) と結婚して王位に就いたチャールズ一世に数学の個人教師として呼ばれ、 また海軍の測量長官にも任命されています。 おおむね幸せな人生だったのでしょうが、1644年にイングランド内戦 (English civil war、1642-1649、清教徒革命とも) で、44歳の働き盛りの命を散らしました。 一方、デラメインより25歳年長のオートレッドは優れた数学者として、 乗算に×記号、比に :: 記号をそれぞれ初めて導入するなどの足跡を数学史に残し、 デラメインが世を去った16年後に86年の生涯を閉じました。

この手の論争は現在も多々ありますが、 この40年ほどあとには、やはりイギリスのニュートン (Sir Isaac Newton, 1642-1727、 イングランドで哲学、数学、神学などの分野で活躍した学者、思想家。 万有引力の発見者) が、微分積分法の発見についてドイツのライプニッツ (Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716、 北ドイツで活躍した哲学、数学、科学、法学など非常に幅広い分野の学者、思想家) と25年も法廷論争をするはめになっています。

そういうわけで、現在では、もっとも最初に発明されたのは円板形の計算尺で、 そのすぐ後に直線型が、どちらもオートレッドによって発明された、とされています。 直線型についてはフォスターが1633年に「円を使った計算法」の中で述べていて、 現在では特に議論の余地はありませんが、 これも長らくウィンゲイトの発明であると考えられていました (歴史発見参照)。

いずれにしても日本では、家光将軍の時代でした。 日本に計算尺がもたらされるのは、この260年後です。

機能的発展

学術的発明から現実的な応用へ

1675年にニュートンが、三次方程式の解法を実演するにあたって、 3本の滑尺と1本の固定尺からなる計算尺を使いました。 このときに初めて「カーソル」が導入されたとも言われていますが、 近代的な計算尺にあるようなカーソルは、1775年にジョン・ロバートソン (John Robertson, 1707–1776) が滑尺が動いた後も元の目盛りが読めるように、 また離れた尺の間で対応する目盛りが読めるようにするために導入したのが、 実質的な最初の発明であろうとされています。

その少し後、1677年にイギリスの数学者ヘンリー・コギスホール (Henry Coggeshall、 1623-1690) が、材木の体積や広さを計算するための計算尺を作りました。 それまでの計算尺は純粋に数学の学問で用いられていましたが、 これがその現実的な用途への応用の第1号であるとされています。 これは別名カーペンター (大工) 計算尺とも呼ばれています。 この後約200年、逆尺 (除算が簡単になる)、対数の対数などの機能が追加されながら、 計算尺はゆっくりと進化していきます。

特に17世紀末には、イギリスのウィリアム・ニコルソン (William Nicolson、 1753-1815) という人が多種多様な計算尺を考案しました。 中でも円板型でも直線型でもない「渦巻き型 (spiral slide rule)」という比の計算をするためものがユニークで、 これは一見円板型ですが、よく見ると尺が円ではなく渦巻きになっていて、 カーソルに相当するアームが2本あり、 a:b = c:x の x を a, b, c から求められるというものでした。 また、長い尺を二等分、三等分して重ねることで、 物理的に短い尺でも精度を上げることができる「フォールド (fold)」尺も、 イギリスで開発されました (シルヴァヌス・ベヴァン (Sylvanus Bevan) の 1987 年の発案)。

しかしこの頃には、イギリスでは計算尺は一般には忘れ去られた存在になっており、 一方でフランスで次第に普及し始めていました。 1850 年にフランスでは、 政府の技術系の職員になるには計算尺の試験が必須になりました。

マンハイム計算尺

二つの直線形の固定尺の間に滑尺をはさみ、 乗算、除算、二乗と平方根、逆数、 ものによっては三角関数を容易に計算できるように目盛りを並べ、 カーソルを読みたい目盛りに合わせて読むという近代的な形は、 フランスの砲兵隊にいたアメデー・マネーム (Amédée Mannheim、1831-1906) の考案です。 これは 1850 年のことで、彼はまだ19歳だったと言われています。 今日では、マネームは幾何力学に大きな貢献のあった研究者だと評価されていますが、 彼の計算尺は当初、まったく広まりませんでした。 普及のきっかけになったのはイタリアはトリノのクェンティーノ・セラ (Quentino Sella、詳細不明) がマネームの計算尺の使用法を解説する本 ("Teorica e practica del regolo calcolatore") を 1859 年に出版したことでした。 この本は 10 年後の 1869 年にフランス語に翻訳され、 これにより、ヨーロッパでは計算尺が広く普及し始めました。 そして後に、このタイプの計算尺が日本に持ち込まれました。 日本では「マンハイム計算尺」と呼ばれました (後述)。

アメリカでの多機能化

マネームの計算尺に加えて、三乗と立方根、CI 尺 (C 尺の逆) を刻んだものを 「多相 (polyphase)」計算尺と呼びます。そしてその裏面に、 C 尺や D 尺の定数倍 (CF および DF 尺、円周率倍が多い) などを刻んだものが両面 (duplex) 計算尺です (もちろん表裏両面で目盛りの位置が合わせてあります)。 マネームの改良後も、アメリカでは計算尺は普及していませんでしたが、 1880年にマネーム型が持ち込まれ、 同年にセントルイス (St. Louis) にあるワシントン大学 (Washington University) の一部の学部で入試の必須科目となったことから、だんだんと一般に普及し始めました。 そしてそれと同じタイミングで、1881 年にエドウィン・タッカー (Edwin Thacher、1839-1920) が卓上型の円筒型計算尺の特許を取得し、それをニューヨークの Keuffel & Esser 社が製造、販売しはじめたことが普及のきっかけになりました。 その後、1891年にアメリカのウィリアム・コックス (William Cox、詳細不明) が両面計算尺を発案しました。

円筒型計算尺

円筒型計算尺はタッカーの特許の3年前、1878年に北アイルランド、 クイーンズ・カレッジの教授だったジョージ・フラー (George Fuller、詳細不明) が発明したのが始めであろうと言われています (彼も米国で、タッカーの2年前の1879年に特許を取得しています)。 計算尺は基本的に、尺が長ければ長いほど精度を上げられます。 円筒型は長い直線の計算尺を円筒の周りにグルグル巻き付けることで、 長い尺でもコンパクトに使えるようにしたもので (尺が重ならないように巻くため、螺旋 (helix) になります)、同じ直径の円板形のもの (一周で全ての目盛りを刻む) よりも精度の面で優れています。 フラーが作ったものは尺の長さが 84 フィート (25.6m) もあり、 精度 (有効数字) が最低でも4桁ありましたが、片手で持てる大きさでした。

一方で、一つの円筒型計算尺では尺の種類が二つに限られており (多くの場合、1から100までを刻んだ二つの尺、 A 尺と B 尺を備えた)、 機能の多さでは直線型には及びませんでしたが、 高精度でもコンパクトという利点から数多く作られました。 なお、1から10までを刻んだ C、D 尺ではなく A、B 尺が使われたのは、 目はずれを少なくするためです。 A、B 尺は C、D 尺に比べると、長さを2倍にしないと同じ精度になりません。 つまり、円筒型はそれ以上に尺を長くとることができたということです。

計算尺の呼び名

ちなみに、円板型と円筒型はそれぞれ英語ではサーキュラー (circular slide rule)、 シリンドリカル (cylindrical slide rule) と呼ばれます。 直線型はレクティリニア (rectilinear slide rule) です。 また近代的な計算尺はドイツも主要生産国でしたが、 ドイツ語では計算尺はレッヒェンシーバー (der Rechenschieber)、 円板型はルンデ (runde Rechenschieber) あるいはレッヒェンシャイベ (die Rechenscheibe)、円筒型はツィリンドゥリッシェ (zylindrische Rechenschieber) です。 また計算尺はレッヒエンスタブ (der Rechenstab) と呼ばれることもあります。

日本での開発と全盛期

日本には1894年にマネームの計算尺が持ち込まれたとされています。 文明開化まっただ中の当時、日本ではマネーム (Mannheim) はドイツ語風に「マンハイム」と読まれました。 そのため多くの資料で「マンハイム型計算尺」と書かれています。 これを日本に持ち込んだのは、 連れ立って欧米視察に行っていた内務省の土木課長近藤虎五郎と、 工学博士の広田理太郎でした。 翌1895年、二人はこれを東京猿楽町の中村測量計器製作所に持ち込み、 国内での大量生産を発注しました。 中村測量計器製作所ではその設計、生産の担当に、 当時18歳で入社まもなかった逸見治郎 (へんみじろう、1878-1953) をあてました。 しかしこの注文は単に目の前にある製品を複製すればよいと言うものではなく、 精度を補償し操作のしやすさを維持するためには、 素材から研究する必要があることに逸見は気付きました。 彼は様々な素材を試し、最終的に竹の貼り合わせ合板が最適であることを見つけ、 マンハイム型計算尺に独自の改良を加えたものをその年のうち、1895年に開発しました。 これが世界を席巻したヘンミ計算尺の始まりです。

逸見はさらに精度よく大量生産する工法を考案し、1928年に逸見製作所 (現在のヘンミ計算尺株式会社) を設立して直線型計算尺の製造、販売を始めました。 高温多湿で気温も湿度も変動が激しい日本で、 年間を通じて精度を保つように作られた逸見の計算尺は、 世界的にも精度のよさと狂いの少なさはトップレベルで (竹を使ったのがよかったとされています)、 第一次大戦中にドイツが計算尺の輸出を停止したこともあり、 一時は年間100万本の生産量を誇り、世界シェアの80%を占めていました。 1939年にアメリカで書かれた記事では、日本の木製 (Japanese wood、竹製であることを指しています) のものが非常に普及してきている、と書かれています。

衰退

電子計算機の登場

今から振り返って見ると、計算尺の全盛期は1960年代後半でした。1970年代に入ると、 電子計算機が少しずつ普及し始めました。 世界初の電子計算機は1946年、アメリカのペンシルベニア大学で作られた ENIAC であるとされています。 ENIAC は幅が24m x 0.9m で高さが 2.5m、重さが30トンでぎっしり真空管が詰まった巨大な装置でしたが、 1963年にはイギリスの Bell Punch and Sumlock-Comptometer 社が卓上の計算機 Anita Mark8 を発売しました。これは真空管式でしたが、翌年に日本の早川電機 (現在のシャープ) からトランジスタを用いた CS-10A が発売されました。 これは535,000円というすごい値段でしたが、同じ年の秋にはキヤノンからも Canola 130 というトランジスタ式が、 そして翌1965年にはカシオからも相次いで発売になりました。 さらに続く1966年に日本計算器販売 (Anita Mark8 の輸入販売を行っていた、現在のビジコン株式会社) が破格の298,000円で発売した Busicom 161 が普及のきっかけとなりました。

伝説の名機の登場と主役交代

そして1969年、シャープが世界初のLSI電卓 QT-8D を99,800円で発売しました。 これは大きさも普通の事務机に無理なく乗り (幅13.5cm、奥行24.7cm、厚さ7.2cm)、 値段も法人なら十分購入可能であったことから爆発的に売れ行きを伸ばし、 結果的に、計算尺にとどめを刺すことになりました。 ヘンミ計算尺は1975年に計算尺の生産を停止し、 80年にわたる計算尺メーカーとしての歴史を閉じました。 私が小学生の頃 (1970年代後半) には、 算数の教科書にそろばんと計算尺が載っていましたが、 そろばんは授業で何度も練習したのに対して、 計算尺は実際に使ってみることはありませんでした (20年後に現物を手にするとは思ってもみませんでした)。 電子計算機の普及に伴い、そろばんが教育現場で生き残る傍らで、 計算尺は完全に衰退したと言えます。

ちなみにヘンミ計算尺株式会社は現在も存続していて、 プリント基板や半導体製造装置、流体制御機器の製造などを行っています。 また特殊用途の計算尺の受託製造も行っているとのことです。

なお電卓はこの後、すさまじい開発競争になり、また価格破壊も劇的に進んで、 混沌とした状況になりました。 今日では使い捨てのようなものまであり、 機能としては飽和状態で、いかに使いやすいかを追求した開発が行われています。 一時はパソコンの普及で需要が縮小するかと思われましたが、 最近の世界市場は年間1000万台程度で安定しているようです。

計算尺は死んだのか

パソコンと電卓

パソコンは、 どんな複雑な計算でもあっという間にできる魔法の道具のように思われていましたが、 実際やろうとすると、まず電卓アプリケーションを起動し、 数字をキーボード、あるいはマウスクリックで入力することになります。 電卓でやるような簡単な計算は、パソコンでは案外と手間がかかるものです。 また今は日本の誰もが持っている携帯電話も、 ほとんどのものは電卓機能がありますが、 マウスがないこと以外は結局パソコンと同じ手順を踏むことになり、 やはり計算を始めるまでには、ひと手間かかります。 要するに、電卓でできることは電卓を使うのがやりやすいのです。

計算尺と電卓: 手間と精度

とすると、やはり計算尺は電卓に駆逐され切ってしまった、ということでしょうか。 残念ながら、実用面ではそう言わざるを得ません。 手に取って目盛りを合わせるだけですぐに乗除算、二乗三乗、三角関数、 その混合などの計算ができる計算尺ですが、電卓と比較すると、 その手間自体はたいして変わりません。しかし精度がまったく違います。 私が普段使っているドイツ・ファーバーカステル社の NOVO DUPLEX 2/83 N は、C/D 尺の 1 から 10 までの長さが約 25.4 cm (10 インチ) で、有効桁数はだいたい 3 桁です。 そしてフラーの円筒尺が 25.6 m で 4〜5 桁です。 計算尺では、精度を10進数で一桁上げるのに、長さが10倍の尺が必要なのです。 ところが、電卓は普通のものなら最低でも 8 桁あります。 計算尺で 8 桁の精度を持たせるには、25,400 m つまり 25.4 km の尺が必要になります。 そのため、経理などの桁の大きな数を扱う現場では、 計算尺の出番はもはや完全にないと言えます。 また手間は変わらなくても、電卓の方がはるかに速く答えを得られます。

歴史的ではない価値

科学技術の現場でも、精度に関しては同じような事が言えます。 ただ経理などの分野と違うのは、 研究者、技術者は計算をするときに、人によって違いはあれど、おおよそ定規、数直線、 あるいは何からのアナログ的な量をイメージしていることがある、ということです。 このイメージは計算尺と相性がいいのは間違いありません。 計算の精度にしても、デジタルな「桁数」ではなく、 誤差の「幅」が目盛りから見える、というのがいいのです。 特に円板型は、一回転するごとに桁が変わっていくと見ることができ、 そして「桁が実数値として連続的に変化する」と見ることもできます。 その変化の度合いが、回転角に比例しているのです。 また、十進数の「10」が10じゃなくても、目盛りの変化していく様子は同じである、 というようにも感じられ、意義深いものがあります。 オートレッドが円板型を最初に発案したのは、 こういう数学的背景によるのだろうと思います。 そういったことから、 計算尺には数学の基礎につながる教育的意味を見いだすことができます。 また直観型 (で暗算が弱い私のような) の人間には、今もって便利で、 かつ興味深い道具だといえます。

歴史発見

コロラド大学工学部 (School of Engineering, Colorado College) のフロリアン・カジョリ (Florian Cajori, 1859-1930) 教授は、 1909 年に A History of the Logarithmic Slide Rule (全文が上のリンクから入手できます。Amazon でも売っています) という本を出版しました。これは計算尺の歴史を丹念に調べた力作で、 そのすぐ後にイギリスの科学雑誌 Nature に、 この本に基づいた計算尺の発明者に関する短い記事を載せています。 その記事によると、当時 (1909年) には直線型の計算尺 (rectilinear slide rule) の発明者はウィンゲイトだするのが多数派だったようです。 ウィンゲイトの努力が280年にわたって報われていたといえましょう。

しかし他にもガンター、 あるいはオートレッドが発明者ではないかとする意見もありました。 特にイギリスの数学者ド・モルガン (Augustus De Morgan, 1806-1871, コンピュータ・サイエンスの基礎として非常に重要なド・モルガンの定理で知られる) がウィンゲイトのいくつかの著書にあたって 「スライドのある尺のことは書いてないようだ」と言っていたことに加え、 ウィンゲイトの著書を詳しく調べた者が誰もいなかったらしいことから、 カジョリ教授はその時点で残っていたウィンゲイトの著書をすべて調べました。

その結果、 ウィンゲイトはスライドを利用するような計算道具については一度も触れていない、 フォスターが 1933 年に出した本の付録で、 オートレッドが発案したとして直線型に触れているのが最初だ、 という結論に達しました。

380年前の名誉争いは、100年前に丹念な文献調査によっておおよそが明らかにされた、 ということになると言えるでしょう。

履歴

November 2 2010
江戸時代の学問や日本での開発にちょっと加筆
August 2 2010
表現を修正
July 28 2010
加筆訂正 (「歴史発見」と「渦巻き型」)
July 16, 2010
加筆訂正 (「計算尺は死んだのか」)
July 12, 2010
公開

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